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あの申し訳なさをなかったことにできない

あの申し訳なさをなかったことにできない あの申し訳なさをなかったことにできない

 先日、何人かのひとたちで歌舞伎町の中国料理屋で羊の脳みそを食べてきた。わたしは蕨や川口あたりによくいるので、こういう食べ物は慣れているが、ほかのひとたちは恐る恐る食べながら酒で流し込んでいた。

 そのせいか、酔いが早くまわり、ここでは書けないような話をデカい声でしまくるという「ダメな客」になっていた。

 そんな様子を見かねてか、店員さんに中国語なまりの日本語で「しずか!」と叱られてしまった。

彼女の怒声を聴いて、ふとあることを思い出した。
小さいころ、父方の祖母が焼肉屋をやっていて、家族でよく遊びに行っていた。彼女はわたしたちが店に来ると酔った客を叱りつけたとか、吐いたものの処理が大変だったとか、愚痴をこぼす。

父は「しょうがねぇよ。お袋。店持てたんだから。」と祖母をなだめていた。

 そんな光景を思い出し、なんだか申し訳ない気持ちになって、羊の脳みそを食べていた。

 この飲み会の翌日、望月優大氏の『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』を読んだ。この本は「ニッポン複雑紀行」で日本に住む外国人たちのルポを書いている著者が「日本の移民」の現状を書いたものだ。以前から彼の書いたものは読んでおり、楽しみにしながら『はじめに―「移民」を否認する国』から読んだが、ページを重ねるごとに、書いていることは正論だが、なにかが抜け落ちているような「欠落感」が大きくなってくる。『あとがき』まで読み終えても、この気持ちは解消されない。

 妙な「もやもや」を抱えているときは時間を空けてから読むのがいいと経験的に知っていたので、しばらくしてからもう一度、この本をあたまから読んでみる。
 するとこんなことが書かれていた。

 

『「私たちは今、かつてない体験をしている。電車に乗れば、アジアのどこかの国の言葉がふと耳に飛びこんでくるし、近くのスーパーでは、大根や豆腐をぶら下げて買い物をしている留学生たちをよく見かける。またオフィス街では、日本人の同僚に混じって外国人ビジネスマンが働く光景は、あたりまえとなってきた。この新しい事態に日本人はとまどっている。これまでこの島国から出ていくことによってしかあまり出会うことのなかった異文化と、いまや、だれもがこの国の中で、日々の生活の場でぶつかりつつあるのだ。しかも、この動きはかつてない規模と広がりでもって進んでいる」―。

 確かに、その通りだ。』

 

ここにわたしの感じた欠落感があると思った。

 最近、「移民」を取り上げた記事が増えたように思う。それらを読んでいると、あたかも「最近になって、日本に移民がやってきた」かのような論調だ。しかし、在日の記憶を掘り起こしてみると、「最近」のことではないと気づく。

 埼玉には「やきとん」という料理がある。豚のカシラやホルモンを串に刺して焼き、辛味噌をつけて食べるものだ。

 父はこのやきとんをよく買ってきてくれた。肉の大好きなわたしはそれを串ごと頬張っていたのだが、この料理がなぜ、埼玉にあるのだろうとふと思い、「これって、昔から埼玉にあったものなの?」と父に訊ねた。父は笑いながら「カシラだの、ホルモンだのを味噌につけて食べるのは韓国人しかいないよ。」と言って、やきとんの話をしてくれた。

 戦前から戦中にかけて朝鮮半島から「労務者」と呼ばれたひとたちが埼玉の軍需工場で働かされていた。戦争が終わると大日本帝国臣民だったのに「朝鮮戸籍に載っていたひとびと」であったため、無責任に放り出されてしまった。なにもないまま異なる土地で生きていくため、よく食べていたカシラやホルモンを串に刺し、焼いて売るようになったという。

 そんな話を食卓で聴きながら育ったわたしにとって「最近になって、日本に移民がやってきた」という論調の記事を読んでも、「昔からいたんだけど。」という感想しか出てこない。在日と昨今、注目されている「移民」は文脈が違えど、どちらも安価な労働力として、日本にやってきて理不尽な差別を味わっていることに変わりはない。

 そのせいか、父も私も好きな映画は『ゴッドファーザー』。イタリア系移民としてアメリカで生きるためにさまざまなことをする姿が「在日」を思い起こさせるからだと思う。

この映画に思い入れがあるのはどうやらわたしたち親子だけでないようで、在日同士が集まって好きな映画の話になると、『ゴッドファーザー』を観て、涙するという話をよく聴く。

 なかには正月になると家族で正座して観るひともいるらしい。

 チェサより大変そうだ()

 わたしの感じた欠落感とはこの本のなかに「在日」がなかったことにされていることだった。そんな欠落を抱えたまま「日本がどんな国で、そのエッセンスをつかみ取ること」はできないだろう。「市井の人々に必要なのが全体像である」のならば、在日のことも当然、書かなればいけなかったと思う。

 歌舞伎町の中国料理屋でたらふく飲み食いしたわたしたちは2件目に行くため、レジの前に立った。すると、レジにはわたしたちを叱った店員さんがいるではないか。

わたしは「うるさくしちゃってごめんなさい。」と謝った。

 これは祖母の記憶がなければ出てこなかったと思う。

こうした瞬間を「最近になって、日本に移民がやってきた」と考えるひとたちの目にはどううつるのだろうか。

 ただ、ひとこと、わたしが感じたあの申し訳なさはなかったことにできないとだけ言っておこう。

 

(金村詩恩)

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ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

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