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『青 chong』(1998)

『青 chong』(1998) 『青 chong』(1998)

『青 chong』(1998)
脚本・監督:李 相日

出展:www.amazon.co.jp

 

日本映画学校(現:日本映画大学)の卒業制作として撮影された本作は、朝鮮高校に通う在日コリアンが自分たちのアイデンティティについて葛藤する青春ドラマである。

本作は李相日の監督デビュー作であり、『ぴあフィルムフェスティバル(PFF)アワード2000』でグランプリを含めた4賞を受賞。 

2001年には劇場でも公開された。

李相日監督はこの後『69 sixty nine』(2004)、『フラガール』(2006)、『悪人』(2010)、『怒り』(2016)等を監督しており、今や日本を代表する映画監督の一人である。

〜あらすじ〜

朝鮮高校に通う主人公テソンと、親友のソンギ。彼らは野球部のピッチャーとキャッチャーという間柄。

ある日、高野連が朝鮮高校野球部に公式戦参加を認めたことで、彼らはテレビや新聞に大々的に取り上げられる。

朝鮮高校野球部を、親御さんら周りは囃し立て、監督も命がけでやれと気合いを入れるのだが、練習試合で大敗してしまうテソン達。

テソンの姉が実家に日本人の彼氏を連れて来て家族全員で彼氏に冷たく(はじめのうちは)接したり、テソンが想いを寄せる幼馴染のナミに日本人の彼氏がいると学校内で噂になり、黒板に「チョッパリと付き合ってるビッチ」と書かれたりとナミが陰湿ないじめを受けたり、思春期のテソンの周りで様々な出来事が起こる。

テソンは野球部公式戦を前に、野球を辞めると言い出すが……。

 

まず本作のタイトルから説明しよう。

「青」という漢字は韓国語で「chong」と発音する。また、日本人が朝鮮人を差別的に指す呼び方が「チョン」である。この2つのチョンをかけているのが本作のタイトルというわけである。

ちなみに劇中によく台詞に出てくる「チョッパリ」とは、逆に朝鮮人が日本人を差別的に指す呼び方である。

私は本作をもう十数回観ているが、初見の際に冒頭シーンから思ったことがある。

「北野武映画に似ているな。特に、『キッズ・リターン』(1996)に似ている」

構図の取り方、会話の間の取り方、時間省略、劇版(劇中音楽)等、まるで北野武映画を観ているような感覚だった。

具体的シーンを挙げると、例えば冒頭シーン。ファースト・ショットは不良2人組がカメラ目線で、「お前ら本当にチョン高生なのかよ? チョン高て言えばビビると思うなよ。証拠を見せろ、証拠を」などと誰かを威嚇しているのだが、なかなかカットバックせず、不良2人が誰に話しかけているのかを暫く見せない。そして、カットバックすると、テソンとソンギがカメラ目線で立っている。

このまず主要じゃないキャラクターを初めに映し、少し引っ張ってから主要キャラクターにカットバックする撮り方は、北野武が主要人物の初登場シーンでよくやる手法である。

他には、ソンギが自分が在日で朝鮮高校に通っている事を隠し、キムラ(SMAPの木村からとっている)という偽名でアルバイトしているコンビニでのシーン。高野連が朝鮮高校野球部に公式戦参加を認めた直後の練習試合で、ソンギらが大敗したことについて、日本人のバイトの先輩が朝鮮高校をボロクソに言うのだが、次のショットでソンギのカメラ目線、次にコンビニに来ている子供のショットで時間経過を挿入し、次のショットではバイトの先輩がボコボコにされた後のショットが入る。実際に殴っているところは敢えて観客に見せず時間省略する撮り方なのだが、これもよく北野武がやる手法だ。

例えば『ソナチネ』(1993)で、武がエレベーター内で刺客たちに囲まれているのだが、その次に実景か何かのショットを挟みそのショット内で銃乱発射の効果音を入れ、次のショットで「チン♩」とエレベーターのドアが開くと、武以外全員死んでいるシーンがあるが、先に述べた時間省略し敢えてバイオレンスな映像を観客に見せない手法の良い例だ。

 

李相日監督と呑んだ際に思い切って聞いてみたことがある。まぁ、私は空気をあまり読まない人間なので、思い切ってというか、ごく自然に聞いたように記憶しているが。

「あの映画、北野武映画を模倣してますよね?」

その通りとのことだった。映画なんか撮った事がなかった李相日監督は、当時映画界に新風を巻き起こしていた北野武映画を何回もVHSで再生しては巻き戻してという事を繰り返して勉強したとのことだった。

李相日監督と

誤解のないように申しておくが、過去の映画を模倣して自分の作品に取り入れることは誰もがやっていることであり、むしろ過去の名作を上手くオマージュした作品は高く評価される。例えばモンタージュの生みの親エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』(1925)のクライマックスシーンで大階段を赤ん坊を乗せた乳母車が下っていってしまうシーンを模倣した『アンタッチャブル』(1987)は高く評価された。映画が誕生してから120年以上経つ今、本質的な意味でのオリジナルなんてものは存在し得ないのである。『ロミオ&ジュリエット』と『ウェストサイドストーリー』だって、全く異なる話のようで、根っこの部分は同じお話なのだ。

  そもそも芸術というものは真似することで発展してきたのである。

  そもそも人間というクリーチャーは真似することが他の動物よりも長けているからこそここまで文明を発展させることができたと私は考える次第だ。

 

  おっといけない。つい熱くなり、本題から逸れてしまった。私の悪い癖だ。

  劇の中盤、チョンボというおふざけキャラがテソン達の野球部に入部してくるのだが、彼の台詞にこんな一節がある。

 

チョンボ「日本では朝鮮人、韓国では日本人呼ばわり、俺たちって一体なんなんだろうな」

 

私が幼い頃から一緒に住んでいたひいおばあちゃんが亡くなり、葬儀で韓国に行ったとき、遠い親戚からこんなことを言われた。

「韓国人なのに韓国語が出来ないなんて恥ずかしいぞ」

  生まれも育ちも日本で、日本の学校に通って、そもそも親だってろくに韓国語を話せないのに、そんなこと言われても困る。と、当時は内心思っていた。

  高校時代、ヨーロッパに単身留学させてもらった。現地で仲良くなった韓国人の友人と喧嘩するたびにこんなことを言われた。

「韓国語もできないんだから日本人じゃん。チョッパリじゃん」

  2008年に韓国で暮らし始めた頃、韓国は竹島問題で連日キャンドル・デモが行われており、当時韓国語が全く話せず英語で会話していた自分に韓国人がこんなことを聞いてきた。

「竹島(独島)はどっちのものだと考える? 私たちのもの? それとも君らのもの?」

  俺、一応韓国人なんだけどなぁ。

  まさに「俺たちって一体ナニジンなんだろうな」である。

  チョンボのこの台詞には酷く共感した。

  ただ、私の脳裏に一番焼き付いたのは、ナミが発するこんな台詞だ。

 

ナミ「私、チョン高生て嫌い。仲間意識強すぎて、絶対に外のもの受け付けない。いつも自分たちの狭い世界の中だけでモノを考えてる」

 

近年、このナミの台詞に強い共感を覚える。

たしかに、在日コミュニティは同じ出自の者同士が集まり討論したりと有意義な面も多いが、自分たちは差別されてきたと言うわりに、自分たちも排他的なところがある気がする。

  そもそも在日3世以降は、在日1世2世の時代に比べると大幅に差別はなくなっている。

  私自身、自分が韓国籍ということで嫌な思いをしたことも多々あるが、得したことの方が多い気がする。

  自分のコンプレックスは最大の武器だ。

  こういったマイノリティ・アイデンティティを活かすも殺すも自分次第であると私は考える。

  長くなってきてしまったので、最後に本作劇中のいくつかの爽快な台詞たちで幕を閉めよう。

チョンボ「どーでもいいじゃん、どうせ俺たちはどっちつかずの人種なんだからさ」

テソン「やめたいか? チョーセン人」

ソンギ「馬鹿野郎。俺は生まれ変わってもチョーセン人でいいよ」

テソン「そーだよな。なっちまったもんはしょうがないからな」

テソン「関係ねえよ。俺は俺だ」

 

※『青 chong』は、TSUTAYA等でレンタルできます。

 

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崔 正憲  (ちぇ じょんほん)

札幌出身の在日三世。

2005年 学習院大学経済学部経営学科 卒業
2015年 日本映画大学脚本・演出コース 卒業(一期生)

監督作品 『熱』(2015) 第9回 TOHOシネマズ学生映画祭 準グランプリ、第19回 水戸短編映像祭 準グランプリ 『DUEL』(2013) 『ナニジン』(2013)

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