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インタビュ- 沈壽官さん

インタビュ- 沈壽官さん インタビュ- 沈壽官さん

アンニョンハセヨ、インジュです。
今回のインタビューは、鹿児島に窯元を置く陶芸家の15代目・沈壽官(ちん・じゅかん/シム・スグァン)さん。
16世紀末、豊臣秀吉による壬申倭乱によって日本に連行された陶工の子孫です。
祖国を思い続けながらも日本の地に根を張り、試行錯誤の末に作り上げた「薩摩焼」を今日まで守ってきた歴史は、14代目をモデルに書かれた司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」などで、ご存じの方も多いと思います。

400年以上前から日本の地に暮らす沈家ですが、15代は現在の在日韓国人と変らない悩みを抱えていたこともあったといいます。
インタビュー後にあった特別講演会(駐横浜韓国領事館主催)では、「日韓は私にとって分かちがたい存在。若い時はどちらをとるのか悩んだこともありましたが、今は僕の中に両方の国があって、恵まれていると思います」と語っていました。
もし同じような悩みを持つ方がいたら、少し心が楽になるかもしれません。

 

 

——独特のルーツをお持ちです。どのような背景がありますか?

橘南谿(江戸時代の医師・随筆家)の本によると、高麗の村(現在の鹿児島県日置市)という所は、表面的には朝鮮式の髪型を結い、言葉をしゃべり、朝鮮の祭礼を守るということを藩主の島津家によって義務付けられていた地区でした。
人々はどんどん日本に同化していくが、島津家としては防ぎたいという考え。一見すると朝鮮人のアイデンティティーに対してリスペクトしているかのようにとらえられるかもしれませんが、実利的な理由がありました。

朝鮮と貿易をしたいというのが薩摩藩の考えで、でも当時は鎖国令の時代だから大っぴらにやりにくい。
だから朝鮮人の居留区を作って、居留区の人々のための物販は許してくださいという形で抜け道を作った。その当事者がまさに我々の先祖だったわけです。

苗字も名前も変えてはいけないという場所ですので、江戸時代には内面的には完全に日本に同化しながら、表面的な部分においてはリトルコリアを維持し続けたという、文化人類学的にも非常に珍しい統治体系をとっているんですね。
同じ時期に朝鮮半島から日本に来ている人たちはたくさんいるんですけれど、他の人々は日本人という形で日本社会に同化していっています。

 

——こうしたルーツが重荷だったともおっしゃっていますね。

明治に入るとほとんどは、藩によって守られた苗字や言葉、暮らし方などがだんだん重荷になる時代が来ます。
それまで日本は民族差別をしたことない人たちでしたが、明治になると帝国主義になり、大和民族の至上主義になる。
そういう中でむろん生きづらいことが出てきます。
多くの人たちが村を去って行きましたし、場合によっては墓石の名前すら削って行くくらい過去を消して、人ごみの雑踏に紛れていきました。
そのあと来たいわゆる「在日」と言われている人たちより、もっともっと早い段階での差別があった。

私自身そういう歴史性を持ったところに生まれると、その家業を継ぐということはその歴史を背負うということ。それは正直申し上げて、憂鬱な話でした。

 

——小さいころから何となく感じていたのでしょうか?

その地区の子供たちだけだと良いんですが、中学に入るといろんな地区の子たちが来ます。
そうすると、僕たちに対して「朝鮮人」と言うんですね。まだその時代ですから、45年くらい前の日本です。
「朝鮮人、朝鮮に帰れ」「朝鮮人、朝鮮語しゃべれ」と。
小学生の先生は、いたずらしたり忘れ物をしたりすると「壺屋に売るぞ」と言っていた。
壺屋って僕らのこと。そういうことが平気で家庭や学校で横行していた時代です。

戸籍制度ができるずっと前に我々の先祖は来ているんですから、戸籍上はもちろん日本人なのですが。

 

——もはやオールドカマーとかニューカマーとかいう次元じゃないですよね。

クラシックカマーですね(笑)
でも日本人はみんなクラシックカマー。アイヌや熊襲の直系という人たちはほとんどいなくて、ほとんど大陸・半島から来ているんですから。

けれども、そういった中でいろいろ考えざるを得ない問題が出てきます。
たとえば、じゃあ日本人になるためにはどうしたらいいのか?
日本人としての明文規定は何なのか? 韓国人としては? 民族って何だろうとか。
そういうことを考えざるを得ないような中学生時代でした。

 

——答えは出ましたか?

結果から言うと、過去によって何人(なんびと)も縛られることはないということです。
ルーツというのは自分にとっては歴史です。歴史というのは事実ですから、それによってあらぬ偏見や差別を受けることにたいしては絶対に戦わないといけないと思う。
しかしながら、そのことによって自分自身を屈折させる必要はまったくなくて、大切なことはその人がどういう人なのかということ。

それに気が付いたんです。31歳くらいのことでしょうか。
だから韓国系日本人であって、ちっともかまわないわけですよ。
人々というのはみんなハイブリッドで、韓国人だって中国系や日系などいろいろいるわけですからね。

 

——韓国という国をどう受け止めていますか?

420年以上ここに住むと、日本人としての感覚はあるんだけど、時々やっぱり「あっちかな」と思うことはありますね。
たとえばお昼ごはんを食べながら夜何食べようか話していたりね(笑)

心の置き所みたいなところで、だんだんと年齢を重ねていくにしたがって、韓国に対する郷愁みたいなものが出てきたのは間違いないですね。
自分が50過ぎて、あまり日本とか韓国とか意識せずに落ち着いて韓国を見られるようになったからかもしれません。

もともとあまり大都会が好きではなくて、田舎が好きなんです。
韓国の田舎に行く機会が増えて、日本人がまだ知らない良さがいろいろあり、人々のやさしさだとかを感じています。

 

——ごはんのことばかり考えているなんて、いかにも韓国人ぽいです(笑)ありがとうございました!

沈壽官
1983年早稲田大学卒。イタリア国立美術陶芸学校を経て、韓国・京畿道でキムチ壺製作の修行。1999年に15代沈壽官を襲名した。欧米や韓国など各地で展示会を開催している。

聞き手:アン・インジュ

1984年ソウル生まれ。1990年に来日、神奈川県で育つ。延世大学校政治外交学科卒。日本の全国紙に勤務中。お酒が弱くなったことが悩み。