第四期(1984~1985)

’83年度の外登法改正運動の成果と総括を携えて、1984年 2月に第5回定期中央大会を開催、それまでの年齢上限を35才から30才までと引き下げ、権清志第四期執行部が発足しました。来たる1985年夏の大量切り替え期を控えて、外登法改正運動への全面力量傾注を図ったのです。

前半期においては、“草の根運動”を、10月5日には在日大韓婦人会との共催で「外登法改正闘争在日韓国青年・婦人決起集会」を東京の荒川区民会館にて、1,200名近くの婦人・青年の見守る中で挙行し、拒否を前面に出した“外登法改正闘争委員会”の設置を確認しました。以後、闘争委主導の下で一連の統一行動で拒否者を現出していったのです。

 国際・本国、そして日本世論をバックに改正運動の高揚を図り、1985年2月8日から3月1日までの21日間、総勢120名近くの青年たちが神戸から東京までの約709kmを徒歩で踏破する「指紋押捺拒否東海道人権行脚」を挙行しました。人権の尊さを侵害されることの苦しさや悲しみを自らの身をもって訴え、全ての同胞、心ある日本人に向けてのアピールをもって、行脚隊は、民団団員大衆より熱烈な歓迎を受け、来たる留保運動への条件作りに寄与したのです。1985年前半期は、法改正をめぐって日本政府側と運動側との間に熾烈な攻防が交わされ、青年会も敏速且つ適切に対応し、拒否宣言者への再入国不許可の粉砕、5・14通達の形骸化に向けての自治体交渉、外国人記者クラブを通じての国際世論への働きかけ等の一連の行動を通じ、改正運動での先駆的且つ原則的な役割を担っていったのです。

 7月からの大量切り替えをふまえ、民団が「指紋押捺留保運動」推進を確認し、青年会も“拒否できる同胞は拒否を!留保が可能なら留保を!押捺せざるを得ないなら抗議の意の表明を!!”をスローガンに「解放40周年、全国縦断“恨”ストリレ-」を決行し、7月1日から8月15日の光復節までの40日間に、全国8ヵ所で70名近くの青年たちが断食闘争に突入しました。白いパジチョゴリに身をつつみ、在日同胞全体の決起を促したのです。民団団員もこれに呼応しその底力を発揮し、最終的に1万4千人もの大量拒否留保者が現出したのです。日本政府の弾圧も激化し、不当逮捕の続出、在留期間更新不許可等の卑劣な手段を構じるまでに至りました。しかしながらその弾圧がエスカレートすればする程に彼等自身が窮地に追い詰められてきており、法改正は回避することができない時代の大勢となったのです。

 外登法改正運動への取り組みの中から、青年会は自らの民族性を涵養することの重要性と国際的な視野に立った開放性を追求する課題に応じる為に“プリ青年講座”の開講と’85「青年の船」を挙行したのです。国際青年年、そして来たる1990年代の青年運動を展望すために11月10日から14日までに神戸から沖縄へ“サンフラワー号”に全国から300名以上の青年と日本・台湾・タイ・シンガポールの参加者が結集して行なわれました。船内での集中した講義と文化サークル等の一連の具体的行動を通じて、自らの同胞文化創造の可能性を確認したのです。そしてこの船を通じての結論が、青年会「結成10周年記念事業」へと引き継がれてゆくのです。

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