第二期(1979~1981)

第2回中央大会で選出された林三皓執行部の役割は、理論面での整備及び組織体制の整備・強化であり、来たる1980年代における青年運動の方向性提示にありました。

1979年において、地協開催のジャンボリーで2千名以上の青年の参集を図り、内外に青年会組織の存在を知らしめる一方、国際人権規約批准を受けて、在日同胞への国民年金の適用を求める為の「国民年金適用差別撤廃を要求する五万名署名運動」を、光州学生運動記念日の11月 3日に向け、全国的に展開しました。しかしながら10月26日、韓国の朴正煕大統領が兇弾に倒れるという10・26事態に遭遇し、変更を余儀なくされました。その上で目標数を2倍の10万名に繰上げ、 ’80年の 2月10日を目標最終点に掲げました。これは、大統領の急死という事態にあって、悲しみの底に沈む在日同胞社会に向けて強固な青年隊列の存在を誇示することにより、勇気と活力を与える契機とする為であったのです。

 1980年 2月10日、東京三田の笹川記念会館にて「民族主体性を持ち民族差別と闘う在日韓国青年全国集会」を開催。この種の集会としては、史上初の1千名以上の青年の動員と8万名分の署名を集め、日本政府に対し、速やかに在日外国人に対しての国民年金の完全適用を要求しました。この集会で青年会はあらゆる差別と闘うこと、「91年までの法的地位問題」に取り組んでゆくことを内外に表明したのです。以降、その具体的な活動として「国民年金完全適用運動」へと継続し、そして上福岡三中民族差別糾弾闘争に発展してゆくのです。

 他方10・26事態を起点とした本国の情勢は、極めて流動的であり、何よりも政治的安定と経済伸張が望まれていましたが、一部の扇動政治家の行動によって、絶えず不安定な状況下にありました。これらの本国の状況を悪用しようとする“韓民統”・朝総連の妄動を粉砕し、同時に組織強化を期すために「セマウム青年民族正気120日間運動」が提起され、今後の青年運動の担い手としての実力培養を図っていったのです。

 上記してきた結成以来の青年会運動の総括と今後の課題を明確にし、自らの望む未来像を定立するために、1981年秋から翌 ’82年春まで展開されたのが「結成5周年運動」です。全国各地に研究サークルである「未来をみつめる会」を構成し、在日同胞社会に存在する様々な問題を論議・研究。同時に各界各層より研究者を招き、種々の研修会を開催し、1982年 4月の報告集会で未来への提言を行なったのです。同時に運動期間中、青年会並びに学生会結成準備委員会との共同歩調の下、1981年11月 3日、在日本大韓民国学生会中央本部が結成され、10年近くの学生運動の空白期間にピリオドを打ったのです。

 更に同年に結成された在日韓国青年商工人連合会並びに、在日韓国YMCA、学生会という、在日韓国青年学生4団体合同で63周年目の1982年2月8日に神田の在日韓国YMCAにて「2・8独立宣言運動記念碑」を建立しました。2・8の先烈らの気概とその原則性を永く記し、在日韓国青年学生運動のシンボルとして設置したのです。

ページトップへ