雑文~ある在日がふと思い考えてしまう話①〜

2019年01月22日

昨年の年末あたりから続く韓日関係が悪化するニュースが目に入ると、あぁまたこれでヘイトが増えると思ってしまう。そして、そのニュースを検索するまでもなく、ネットではヘイトが常態化しているので、その状態に『慣れ』、ヘイトに対し『怒り』もわかず『無痛』になる。

愉快犯や偏見をもつ一部の人がやっていることであると心の中では思いつつも、そしてより日本社会の大半は、常識と善良な判断をしている人であると信じ、お願いだから、韓日関係がよくなってくれと願ってしまう。

特定の種族や民族に対するヘイトは、現在の韓日関係の良さや悪さなど関係ないはずである。しかし、抗議することに無力さを感じ、韓日関係がよくなりさえすればヘイトは消える、消えはしないけどなりを潜めるだろうと思ってしまう。それを情けないと自嘲気味に思ってしまう自分への嫌悪感は半端ない。

 

いつでも、世の中は、声が大きい人間の主張が通るのではないかと思ってしまう。もしくは、パフォーマンスやプレゼンが上手い人とかの意見が、正しい知識や見識の上で成り立つことよりも、見た目やおもしろさなどで取り上げられ、それが流行し、いずれ常識という言葉になってしまうことに怖さを感じる。

2012年から繰り広げられた新大久保界隈で繰り広げられたヘイトデモは、まさにその最大のパフォーマンスであったと思うし、そのデモに、社会は、世間は、傍観した。まるで違う国でおきたかのように、他人事として、そして在日も沈黙した。

なぜなら、声を大きくすることができなかったから。

 

いまでも思い出すと背筋が凍り付く。デモの中、車道から吐かれるヘイトがガードレールを飛び越え歩道にいる自分を刺してくるのではないかという恐怖はいつまでも忘れない。

日本っていまは、平和で戦争を起こさない国だよね?どこにあるの?そんな国?いう思いと絶望感はそうそう消えない。

 

その中でヘイトに反対する声を集め、大きくしていった人たちがいる。その多くの人たちは、自分の前でこう言った。

「これは、日本人同士の問題だから。在日が前に出る前にヘイトデモをつぶす」と。

 

いつの間にか、その人たちはカウンターと呼ばれ、いまでもヘイトデモが起きると監視し、これ以上広がらないようにと、地道な抗議活動をしている。一時でも、その人たちとともに何かしらのお手伝いやヘイトをなくすことに努めることができたことは、自分の絶望感を薄くし、闘う孤独感が薄らいだ時だといまでも思える。

しかし、心が折れずに続けることは難しく、いまでも闘う以外の選択肢でヘイトをなくすことができないかと模索し、なにも出来ないでいる。

 

せめて自分らしく生きたい。

 

※最後に、表題や文章にある「在日」という言葉は、便宜上韓国や半島にルーツをもち日本に住むすべての人々のことを表現するために使用しています。韓国人や朝鮮人とか特別永住者や一般永住・定住、日本国籍取得者、朝鮮族などの区分は、僕の中では一切無意味だと思っています。

   

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