ヘイトスピード解消法施行2年目の真実

2018年06月05日

ヘイトスピーチ解消法の施行から2年が経過した。

 同法は文字通り、ヘイトスピーチのない社会を目指すために、国や地方自治体、そして日本社会で暮らすすべての人々が、その解消に取り組むよう定めている。罰則のない理念法であるとはいえ、少なくともヘイトスピーチが「不当」であることが明文化された意味は大きかった。

 また、これまで「治安の対象」という観点でしか捉えなかった外国人、外国籍住民の人権をはじめて法律で保護するという点でも意義がある。

 2014年に私はジュネーブで開催された人種差別撤廃委員会を取材したが、その時点において日本政府は、ヘイトスピーチの深刻な被害状況など、ほとんど認識していなかった。「日本はヘイトスピーチを容認しているのか」「なぜ法整備できないのか」と詰め寄る各国代表団に対し、「表現の自由を委縮させる危険を冒すつもりはない」とまで言い切ったのだ。ヘイトスピーチを「表現」に組み込む感覚に愕然とした。「表現」を奪われ、ときに沈黙を強いられているのがマイノリティの側だということに、政府はまるで理解が及んでいなかった。

 だからこそ、解消法施行には多くの人が期待した。何かが変わると信じた。

 同時に、施行からの2年間は、私たちが、法律を社会の中できちんと生かすことができるのかどうか、試された時期でもあった。

 当初、国はそれなりに啓発活動をおこなった。ヘイトスピーチを「許さない」とする啓発ポスターを各所に掲示し、法務省は「○○人は殺せ」「祖国へ帰れ」などの文言や、人をゴキブリなどに例える言動をヘイトスピーチの具体例として示した。

 社会において一定の理解が進んだとはいえよう。ヘイトスピーチの不当性についての認知も広まった。

 だが──それでもヘイトスピーチは続いている。マイノリティの尊厳を棄損し、その存在すら否定するようなデモも繰り返されている。ネット上のヘイトスピーチはいまだ野放しに近い状態だ。

 むしろ深刻さが増した部分もある。醜悪なヘイトデモの回数や動員力が落ちた代わりに、日常生活の中にじわじわとヘイトが染み込んできたようにも思う。学校や職場、飲み会などの席で無自覚なヘイトスピーチが飛び交うことは少なくない。

 私はデモや集会で飛び交うヘイトスピーチに激しい憤りを覚えるが、その日の天気を語るような口調で差別が煽られる場面のほうが、もっと怖い。

 ヘイトスピーチとヘイトクライムの境界は曖昧だ。憎悪と差別、偏見は、容易に犯罪の壁を乗り越える。この2年の間にも、ネットの書き込みを目にして「在日コリアンが日本を支配している」と思い込んだ男性がデパートに差別ビラを貼ったり、慰安婦問題を発端に在日コリアンに憎悪を抱き、民族系金融機関へ灯油をぶちまけるといった事件が相次いだ。私は両方の事件を取材したが、いずれの「犯人」も、デモや集会に参加したことのない”普通の人”である。彼らは卑劣なヘイトクライムに手を染めたが、犯行をそそのかしたのはネットであり、メディアであり、この社会の”空気”でもあった。

 ヘイトスピーチ解消法が、ヘイトスピーチの不当性を日本社会に広めたことは否定しようもないが、限界も見えてきた。いや、それ以上に、私たちの社会は本当に法の理念を守ってきたのか。

 どうかもう一度、解消法の全文に目を通してほしい。同法は基本理念として「不当な差別的言動のない社会の実現に寄与するよう努めなければならない」としたうえで、そのための施策を国や地方公共団体の「責務」だとしている。いったい、どれほどの「責務」を果たしてきたというのか。

 つい最近も、内閣府が運営するサイトに在日コリアンの「強制退去」を煽るような書き込みのあることが発覚した。担当者のチェックを経たうえで掲載されたというのだから、ヘイトスピーチに「お上」がお墨付きを与えたと判断されても仕方なかろう。ヘイト解消の「責務」もなにもあったものではない。地方自治体にいたっては、ヘイトスピーチに関して本腰で取り組んでいるところなど、圧倒的に少数だ。

 その数少ない自治体の一つが川崎市だった。同市は今年3月末、市の施設でヘイトスピーチが行われる恐れがある場合、事前に利用を制限できるガイドラインを施行した。「川崎モデル」ともいうべき施策は注目を集めたが、しかし、ヘイトデモの常連参加者の利用申請を受け付けるなど、運用に関しては迷走している。

 6月3日、折しも解消法2年目という節目の日に、川崎市の教育文化会館でヘイトデモなどを率いてきた人物による講演会が開催されることになった。ネオナチ団体にも関係してきた人物が主催する講演会を、市は何ら審議に諮ることもなく許可したのだ。

 当日、開館前には数百人もの市民が集まり抗議の声を上げた。これによって講演会は中止に追い込まれた。

 この件に関し、一部メディアやネットの書き込みが、あたかも市民の抗議が言論を封じたかのように伝えていることに、私は強い違和感を抱いている。

 主催者はナチスのシンボルであるハーケンクロイツなどを掲げたデモの常連参加者だ。在日コリアンへの差別や偏見を助長するような発言も繰り返してきた。

 法に従うのであれば、日本社会はこれに反対する「責務」があるはずだ。その日集まった市民は、声をからして「レイシストは出ていけ」と叫んだ。まさに解消法の理念に沿って、「責務」を果たしたとはいえないだろうか。

 本来、その「責務」を誰よりも敏感に受け止めなければならなかった行政が逃げ出したのであれば、市民が立ち上がるしかない。

 それが、解消法施行2年目の風景だった。

 これで問題もより明確になったはずだ。国が、行政が、そのうえで何をすべきなのか、これまで以上に真剣に考えなければならない。

 それこそが「責務」である。

 

(了)

 
 
 
安田浩一(ジャーナリスト)
 
1964年生まれ。週刊誌記者を経てフリーランスに。「ネットと愛国」で講談社ノンフィクション賞、「外国人隷属労働者」で大宅ノンフィクション賞(雑誌記事部門)を受賞。

   

ページトップへ