在日同胞史をたどる時、在日韓国青年運動史を欠かすことはできません。1919年の“2・8独立宣言”を起点とした在日韓国青年運動の伝統と原則は、70年ちかくの歳月を経て、1987年から現在、我が在日本大韓民国青年会へと継承されています。かつての民団傘下の青年組織の誕生がそうであった様に我々青年会も、結成に至るまでに様々な混乱と時代の激動を通過してきました。その期間が1970年代の初頭の“民団混乱事態”から我々青年会の結成がなされた1977年までの間です。
民団内部に潜行していた朝総連のフラクション一派、“有志懇”によって、ひき起こされた一連の暴力と不条理が“民団混乱事態”です。
「東京本部襲撃事件」「三機関長殴打事件」等の事件にも見られた様な無秩序と破壊行為の先兵として立っていたのが、当時の民団傘下にあった“旧韓国青年同盟”並びに“旧韓国学生同盟”です。“有志懇”の影響下にある一部指導層の誤導によって、在日韓国青年運動の流れは、極めて危険且つ独善的な方向へとむかおうとしていました。
韓半島全体を視野に入れた評価基準の欠如や、極めて政治的な運動路線への傾倒による観念的体質もさることながら、一般在日同胞青年の素朴な欲求や、在日同胞社会自体の変化への能動的対応の欠如が、旧韓青・学同運動の限界性を示して余りあると言えるでしょう。これらの運動体の在り方に疑問を持ち、同時に余りにも野蛮な暴力によって義憤にかられた青年有志が一同に会し、1972年5月2日、「韓青中央執行部乱動糾弾大会」を開催したのです。集会当日、旧韓青の青年たちが、集会阻止の為に会場内に乱入しようとしましたが、独力でこれを排除し、在日同胞社会並びに青年に向けて、旧韓青・学同の誤った在り方を糾弾しました。この集会を起点に、民団正常化に向けて、これらの青年たちは奔走し、旧韓青と物理的に衝突しながら組織整備に携っていったのです。この時期にあって、数々の犠牲を出しながらも、民団正常化の為に献身的に闘った青年たちが、我々青年会の結成の礎となった先輩たちなのです。
1972年7月7日の民団第20回中央委員会によって“民団混乱事態”は、一応の終止符が打たれ、同時に旧韓青・学同も傘下団体取り消し処分を受け、在日韓国青年運動史は空白期を迎えました。そして次なる青年運動の担い手としての青年会結成への動きがつくられていくのです。
祖国の発展に実践的且つ具体的に携わる試みとしての「60万のセマウムシムキ運動」が1973年より開始され、同時に前年より広島をはじめと する各地方での青年会結成により、新たなる在日韓国青年運動体構築の気運が高揚し、1976年“在日本大韓民国青年会中央本部結成準備委員会”が設立されました。翌1977年2月27日、民団中央会館にて“在日本大韓民国青年会中央本部結成大会”が開催され、ここに我々青年会運動の歴史の幕が開かれたのです。