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「生き続ける」ことを拒む日本社会の高い壁

「生き続ける」ことを拒む日本社会の高い壁 「生き続ける」ことを拒む日本社会の高い壁

 先日、山梨県内に住む高校生、ウォン・ウティナン君(17歳)と久しぶりに会った。いつも通りの明るい笑顔で迎えてくれた。

「将来は日本で生活している外国人の子どもたちの役に立つような仕事に就きたい」

彼はいまようやく、いや、生まれて初めて、自分の未来について考えることができるようになった。

これまで、高校生にとっては過酷で長い裁判を闘ってきた。ウティナン君は幾度も裁判で訴えてきた。

「僕が日本にいてはいけないのでしょうか?」

日本の司法はその問いに明確な理由を述べることなく、長きにわたり「不法滞在」の烙印を押し続けた。

ウティナン君は日本生まれ、日本育ちだ。母親はタイの貧しい農村の出身で、「飲食店で働けば確実に儲けることができる」というブローカーの言葉を信じて、95年に来日した。

だが、仕事先が単なる「飲食店」でなかったことは、来日してすぐに配属された店で気がついた。そのころ、同じように多くのタイ人女性が人身取引によって日本に連れてこられ、各地のスナックやバーで働かされていた。

逃げることはできない。そんなことをすればタイの実家に多額の請求書が舞い込むだけだ。実際、ブローカーからは「逃げたら家族から借金や違約金を回収する」と脅されていた。結局、母親は意に沿わない仕事を強要され、そのまま滞在期限を過ぎても日本にとどまることとなった。

その後、ブローカーが入管に摘発されたこともあり、母親は山梨県に移住した。レストランの皿洗いや農家の手伝いなどをしながら、借金の返済を続けた。そのころに知り合ったタイ人男性との間に生まれたのがウティナン君である。

だがしばらくして男性と別れた母親は、ウティナン君を連れて各地を転々とすることとなった。不法滞在の発覚を恐れて逃げ回る生活が続いたのだ。

ウティナン君は幼少期、部屋の中で隠れるようにして過ごした。だから幼稚園にも小学校にも通っていない。母親が仕事に出かけている間はテレビを観て過ごした。日本語はテレビで覚えた。

11歳のとき。「学校に行きたい」というウティナン君は母親に訴えた。友だちがほしかった。近所で遊ぶ同世代の子どもたちを、いつもうらやましく思っていた。誰の目も気にすることなく、一緒に公園で遊びたかった。

母親は伝手をたどり、山梨県で在日外国人の人権問題に取り組む市民団体「オアシス」に相談する。ウティナン君は、まず「オアシス」で学習支援を受けた。それまで学校教育と無縁に過ごしてきたウティナン君は二ケタ以上の足し算もできなかった。しかし、「学ぶ」ことに楽しみを得たウティナン君は一気に学習の遅れを取り戻す。周囲も驚くほどに、きわめて短期間で同世代の子どもたちと同等の知識を身につけたのであった。

「オアシス」は地元甲府の教育委員会と交渉し、翌年、ウティナン君は無事に市内の中学校へ編入することができた。友人も増え、学校生活を楽しむウティナン君の姿を見て、母親もこのまま日本で暮らし続けることを望むようになった。

2013年、母子は東京入国管理局へ出頭し、在留特別許可の申請をした。つまり、自ら「不法滞在」であったことを名乗り出たうえで、日本に住み続けることができるよう訴えたのだ。在留特別許可とは、法務大臣の裁量により、たとえ滞在資格はなくとも、生活歴や家族状況などを考慮し、人道的配慮で判断されるものである。

だが入管当局はこれを認めず、結局、母子は強制退去処分を受けることとなった。

そこで、処分の撤回、取り消しを求めて裁判を起こしたのである。そのとき、ウティナン君はすでに中学3年生になっていた。

裁判を起こすに際して、ウティナン君は学校で自分に在留資格がないこと、強制退去処分を受けていることをクラスメイトの前で打ち明けた。

「僕は日本で生まれ育ち、日本語しか話せない。しかしいま、タイに帰れといわれている。タイには行ったこともないし、言葉も話せない。だから裁判で闘いたい。みんなと一緒にこれからも日本で過ごしたい」

ウティナン君の突然の言葉に、泣き出す女子生徒もいたという。しかし、同級生たちはウティナン君を支援することを決めた。「強制退去をしないでほしい」と署名活動に走り回った。同級生の親たち、教師、町内会の人たちも立ちあがった。裁判費用を賄うためにバザーを開き、地域ぐるみで母子を支えた。

だが、裁判で負けた。ウティナン君母子が不法滞在であるとの判断は揺るがず、「国外退去」を命じられた。

16年夏、母親はウティナン君を日本に残したままタイに帰国した。そうすることでウティナン君の滞在が認められるかもしれないと判断したからだ。日本生まれのウティナン君には本来、何の瑕疵もない。母親だけが日本を去れば、もしかしたらウティナン君の在留許可が認められるかもしれないと、わずかな希望を繋げ、東京入管にウティナン君の再審査を求めた。

昨年末、東京入管はウティナン君に1年期限の在留許可を認めた。母親の願いが通じたのか。ひとまずウティナン君の強制送還は避けられることとなった。

喜ばしい。だが釈然としない。親子は引き離され、ウティナン君の滞在資格も不安定だ。

ただ住み続ける、生き続けることに、日本社会はどれだけ高い壁を設けているのか。

ちなみにウティナン君は「嫌韓」デモを繰り返す差別者集団にも「日本から出ていけ」と罵声をぶつけられたこともある。

それでも彼は日本社会を信じた。いま、社会の側がその思いに応えるべきではないのか。

(安田浩一)

1964年生まれ。週刊誌記者を経てフリーランスに。「ネットと愛国」で講談社ノンフィクション賞、「外国人隷属労働者」で大宅ノンフィクション賞(雑誌記事部門)を受賞。

安田浩一さん、前回ブログ記事はこちら→いまこそ、掛け軸をはがせ、ソウルのフィリピン市場から